田中愛美選手は、パリパラリンピック車いすテニスの女子ダブルスで見事金メダルを獲得しました。
試合は長いラリーの末に、互いにポイントを奪い合う大接戦でした。
最後まで諦めない姿勢で相手に食らいついて、3時間もの激闘を制したのです。
相手のチームは車いすテニス女子ダブルスで8大会連続で優勝している強豪オランダだったのです。
そのオランダを破り、日本勢として初めて金メダルを獲得しました。
本当に感動的で胸が熱くなりました。
前回の東京パラリンピックはシングルス5位、ダブルス9位だったのですごい快挙ですよね。
歴史的なダブルスの金メダルを獲得した田中愛美選手の出身中学高校や、転落事故を乗り越えて金メダルを獲得した歩みなどを追っかけアスリートブログの私はいろいろ調べてみました。
田中愛美のテニスは中学、高校の部活から
田中愛美選手の出身地は熊本県菊陽町です。
菊陽町で幼少期を過ごします。
パリパラリンピックでは、熊本県菊陽町のパブリックビューイングで大勢の人が田中愛美選手の決勝戦を手に汗握る思いで見守っていました。
熱いエールを故郷の地から送られていたのです。
田中愛美選手は3歳の時に、東京に引っ越しをしています。
現在は埼玉県所沢市在住です。
田中愛美の出身中学校は富士見中学校
田中愛美選手が進学した富士見中学校は東京都練馬区にある中高一貫校の女子校です。
東大生も輩出する進学校で、伝統のセーラー服が素敵で憧れる人も多いそうです。
田中愛美選手もこの素敵なセーラー服に憧れた1人なのです。
実は田中愛美選手は、中学受験で太ってしまって制服を採寸するときに「あら、キューピーちゃん体形ね」と言われたそうです。
ちょっとショックな言葉ですよね。
それで瘦せなきゃと思って運動部に入ることに決めたのです。
そして、田中愛美選手は部活で硬式テニスを始めました。
でも入ったテニス部には、経験者がけっこういたみたいで、差があるのが悔しくて、こっそりテニススクールに通ったそうです。
部活をしながら、スクールにも通うなんてすごい向上心と根性がありますよね。
中学生から始めた部活は田中愛美選手にとって、大きな刺激と楽しみだったようです。
田中愛美選手は、『みんなで休みの日も練習して、遠くへ試合をしに行ったり、帰りに買い食いをしたり、小学生とは違う体験をして、少しずつ大人になっていく感じがよかったんですね。』と話しています。
そして、中学生3年生になると田中愛美選手はキャプテンになるのです。
部員数が多く80人もの大所帯をまとめていく立場になったのです。
80人もの人数をまとめる事を任された田中愛美選手は、人望があり、信頼されていたのでしょうね。
キャプテンになったときは、新入生の名前を覚えるのが大変で、紙に全員の名前を書いて覚えていたそうです。
田中愛美の出身高校は富士見高等学校
田中愛美選手は中高一貫校の富士見高等学校に進学します。
そこでも硬式テニス部を続けていました。
高校1年生の冬に、人生を変えるような大きな事故が起こってしまったのです。
田中愛美は転落事故を乗り越えて
田中愛美選手は、高校1年生の冬に、自宅の凍った外階段で滑って、お尻から落ちて脊髄を損傷してしまいます。
入院生活は4ヶ月にも及んだのです。
田中愛美選手はこの事故によって、自身の両下肢が麻痺してしまい、おへそから下を動かせなくなったのです。
本当に大きな衝撃であり、ショックだったと思います。
この現実を到底受け入れられない時期もあったといいます。
田中愛美選手は退院後は車椅子生活になったのです。
そんな田中愛美選手を学校側は急遽、多目的トイレやスロープを作ってくれたり、友達も暖かく迎えてくれました。
学校側の対応が素晴らしいですよね。
田中愛美が車いすテニスを始める
田中愛美選手は裏方でもいいからテニスに携わっていたいと思っていました。
そして、テニス部の顧問にマネージャーとしての復帰を願い出たのです。
すると、顧問の先生が『どうせ部活に戻って来るんだったらプレーヤーとして戻ってきなさい』と言ってくれたそうです。
顧問の先生がこのような言葉をかけてくれたので、今の田中愛美選手がいるのですね。
その言葉を受けて、田中愛美選手は大好きなテニスが続けられると前を向いたのですが、待ち受けていたのはボールに届かない、走れない、動けないというとても厳しい現実でした。
これらを乗り越えていくのは本当に苦しく大変な事だったと思います。
高校2年生の時の事でした。
このような苦難の中でしたが、田中愛美選手は車いすテニスに打ち込んでいくようになります。
高校3年生の時に、東京オリンピックが決まり、田中愛美選手は東京パラリンピックに出場したいという新たな目標が決まっていくのです。
田中愛美は大学を辞め競技の道へ
東京パラリンピックが大きな目標となった田中愛美選手は、学業との両立を選んだらいいのか悩みます。
その時に、世界で活躍している車いすテニスの大先輩である上地結衣選手の事が浮かんだのです。
上地結衣選手は高校卒業後に、競技に専念する為に進学せずに競技優先の道を選んでいました。
実は、田中愛美選手は私立大学のトップクラスの早稲田大学に入学が決まっていました。
しかし、上地結衣選手のようにテニスだけに専念しなければと思い、一度は入学した大学も辞めて競技優先の道を進むことにしたのです。
本当に車いすテニスに全てをかけていったのですね。
パリパラリンピックの金メダルへの道
2016年、高校を卒業した2年目にはブリジストンスポーツアリーナに入社します。
より練習に打ち込める環境が用意され、練習に専念していくのです。
2016年には、仙台、大坂、台湾の大会でシングルス3勝をあげました。
すごいですよね。
そして、世界国別選手権の日本代表にも初めて選ばれたのです。
20歳の頃には、日本の車いすテニスにのトップアスリートになっていたのですね。
2019年、車いすテニスの世界国別選手権「ワールドチームカップ」で準優勝した日本女子のメンバーです。
2021年には東京パラリンピックに出場します。
2022年より長谷工コーポレーション所属しています。
2023年 杭州2022アジアパラ競技大会 ダブルス女子金メダルを獲得します。
この頃には、世界のトップアスリートになっていたのですね。
上地結衣とのダブルスで金メダル!
田中愛美選手は、上地結衣選手の2歳年下です。
妥協なく向上を求めてきた第一人者に、田中愛美選手は食らいついていきます。
普段あまり組まないパートナーであった田中愛美選手に、上地結衣選手は遠慮なく言ってきました。
直前合宿では打つべきショットなどの判断力を厳しく要求してきました。
田中愛美選手は、『上地さんからの圧力がすごく強かった』と話しています。
上地結衣選手の金メダルにかける情熱と執念が伝わってきますよね。
それに必死になって応えていった田中愛美選手もすごいと思います。
試合が終わった後には、上地結衣選手は開口一番に『本当に田中選手がよく頑張ってくれた』と話しています。
お互いたたえあって素晴らしいですね。
まとめ
熊本県菊陽町で試合を見守った 田中愛美選手のお父さんの田中晋さんは、「間違いなく彼女のベストゲームだと思うし、こんないい試合見せてくれてありがとうだし、金メダルなんて、ほんとにありがとうって何回言っても足りないぐらい。ほんとにありがとう、おめでとうと言いたいです。メダリストになってくれるなんて夢のようです」 「娘は誇りだし、希望だし、かけがえのない存在です」と話しています。
ずっと田中愛美選手をそばで支え続け、励まし続けてきたお父さんにとって本当に涙がでるほどの喜びだったでしょうね。
お父さんは、声を詰まらせながら「ありがとう」と繰り返していました。
素晴らしい歩みを見せてくれた田中愛美選手のこれからの活躍も楽しみですね。
応援していきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
共にダブルスを組んだ上地結衣選手のブログも合わせてお読みいただければと思います。
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